生物は、与えられた形を保っているのではない。膜を作り、その膜の内側で膜の材料を作り、 絶え間なく自分自身を作り直すことによってのみ、形を保っている。 マトゥラーナとヴァレラはこの回路を αὐτοποίησις ——自己産出と命名した。作ることをやめた瞬間に、それは形でなくなる。
人間の成長も、同じ型をしている。知識が増えるのではなく、知識を増やす仕組みそのものが書き換わる。 我々はその過程——語彙・移動・自己認識・判断・選択——を、観測でき、介入でき、 動かすことのできる系として設計している。 設計対象は、人ではない。人が置かれる場である。
入力 r を滑らかに増やしていくと、系の帰着先は滑らかには動かない。 一本だった線は r = 3 で二本に割れ、3.449 で四本に、やがて八本、十六本と倍々に分かれ、 3.5699… を超えた先では周期を失って連続した帯へ崩れる。 滑らかな入力が、不連続な構造変化を生む。
自己成長が苦しく、そして報われるのはこのためである。 昨日の自分の延長線上に、今日の自分はいない。
生命は安定した状態ではない。外から流れ込むエネルギーを使い、崩れ続けながら形を保っている 散逸構造である。流れが止まった系は、やがて最も秩序の低い状態へ落ちる。 静止は維持ではない。静止は劣化である。
入力を滑らかに増やしても、系の応答は滑らかに増えない。ある値を超えた瞬間、 一つだった状態は二つに分かれ、四つに、八つに、そして予測のつかない帯へ崩れる。 能力は積み上がるのではなく、組み替わる。
細胞は自らの膜を作り、その膜の内側で膜を作るための材料を作る。 構成要素が、自分を構成するものを産み出し続ける——αὐτοποίησις。 「私」は実体ではなく、休みなく進行している作業の名前である。
我々が作っているのはアプリケーションという名前の器であり、 設計しているのはこの三つが人間の上で起こる場である。
進化に、目的はない。
あるのは、変化と、それを選ぶ場だけだ。
我々が置いているのは、その場のほうだ。